郭鋒 (唐)
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郭 鋒(かく ほう、? - 貞元17年7月29日(801年9月10日)は、唐の人物。唐の名将郭子儀の孫。父は太原公郭曜。通称は郭使君。官位は鴻臚卿兼御史大夫。
生涯
[編集]貞元5年(789年)12月に回鶻(ウイグル)の第4代可汗アルプ・クトゥルグ・ビルゲ・カガン(Alp qutluγ bilgä qaγan、合骨咄禄毘伽可汗、唐の贈号は武義成功可汗・長寿天親可汗)の没後、即位した第5代可汗テングリデ・ボルミシュ・キュリュグ・ビルゲ・カガン(Täŋridä bolmiš külüg bilgä qaγan、登里羅没蜜施倶録毘伽可汗、名は多邏斯)に忠貞可汗の称号を冊立するため、冊立使として派遣された。
また、貞元6年(790年)4月に忠貞可汗が殺害されると、弔祭使として再び回鶻の地を踏んだ。
帰国の際に入唐告哀使の達比特勤を伴った。達比特勤は入朝し、後継の可汗であるクトゥルグ・ビルゲ・カガン(Qutluγ bilgä qaγan、汨咄禄毘伽可汗、名は阿啜)の冊立を求めた。その際、郭鋒もその場に立ち会った。
その後、麟州刺史となったが、その在任期間中の貞元17年(801年)7月、吐蕃の攻撃を受けて戦死した。
その死を聞いた回鶻の第7代可汗テングリデ・ウルグ・ボルミシュ・アルプ・クトゥルグ・キュリュグ・ビルゲ・カガン(Täŋridä uluγ bolmiš alp qutluγ külüg bilgä qaγan、登里羅羽録没蜜施合汨咄禄胡禄毘伽可汗、唐の贈号は懐信可汗)ら回鶻の国人は皆、嘆き悲しんだ。